感想:NHK番組「時代をプロデュースした者たち 第4回「手塚治虫」」(2015年5月31日(日)放送)


 NHK番組「時代をプロデュースした者たち」の感想です。
(※以下、今回の話の結末まで書いてありますのでご注意ください)

NHKドキュメンタリー - BS1スペシャル 時代をプロデュースした者たち 第4回「手塚治虫
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2365177/index.html

 NHK BS1での視聴です(放送日:2015年5月31日(日) 20:00〜20:50)。



■番組内容

>「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」など数々の名作アニメを創り出した手塚治虫
>不可能と言われたテレビアニメ制作に、私財を投じて乗り出した
>不世出の天才が追い続けたアニメーションへの夢とは?


>マンガの神様と呼ばれた手塚治虫が世に送り出したアニメーションは60作以上
>日本初の長編連続TVアニメ「鉄腕アトム
>アニメのフルカラー化に挑戦した「ジャングル大帝
>そのはじまりは、困難の連続だった
>「金と人と時間をかけないとアニメーションはできない。それが本質みたいになってしまい、雲の上の芸術になったことに反発心があった」
>放送するあてのないまま私財を投じて制作スタートした「鉄腕アトム
>1963年1月1日 午後6時15分 「鉄腕アトム」放送開始。最高視聴率40%を越える大ヒット
>「“なぜアトムをブラウン管にのせたのか”と、よく聞かれる。ぼくはそこにテレビアニメーションという、未知の山があったから、道をつけたかった」
>アニメーションの可能性を追い求めた男の挑戦の軌跡


>世界の若者を熱狂させる日本アニメ。その出発点は1963年放送を開始した手塚治虫の「鉄腕アトム」だ。連続テレビアニメは日本で不可能と言われた時代、会社を立ち上げ自力で制作を始めた。開発したアニメ手法はその後日本独自の発展を遂げ、海外市場やキャラクター商品にも手を広げ日本アニメの礎を築いた。ディズニーも手掛けなかった大人向けアニメーションにも挑戦する。波乱万丈の挑戦の日々を追う。

 1958年、当時超人気漫画家だった手塚は、自分の作品「ぼくの孫悟空」が東映動画でアニメ化されるため、自らスタッフとして参加したが、他のスタッフともめたりすることに。手塚は元々ディズニーアニメの大ファンでアニメに興味があり、1961年自分でアニメスタジオ(後の虫プロ)を立ち上げた。スタッフの給料などは総て手塚の漫画の稼ぎから出ていた。


 1962年に自分の作品「鉄腕アトム」をテレビアニメ化しようと思いつき、放送の当てもないのに試作版を作った。のちにフジテレビと契約するが、フジテレビが一本あたり120万円払うといったところ、自分から55万円で良いと言ったという(とても利益が出ないくらい安く受けることで、他者が参入してくるのを防ごうとした模様)。


 アニメはそれまでは1秒間あたり24枚の絵を描くのが当たり前だったが、手塚は1/3の8枚だけにする「リミテッドアニメ」という手法で作業量を減らした。また体全体を動かすのが当然という時代に、「会話シーンは目と口だけパチパチ動かす」という感じで仕事を減らした。アトムは1963年1月から放送され大ヒットとなり、アメリカでも放送されて人気を博した。当初は赤字で仕方なかったが、キャラクターグッズという物が誕生し、その版権料で儲けるというビジネスモデルが誕生。それを見て他社も「テレビアニメはもうかる」と知り、「鉄人28号とか「エイトマン」とかが放映されるようになった。


 1965年には初のカラーテレビアニメ「ジャングル大帝」がスタート。手塚はテレビアニメの音楽のレベルの低さに不満を感じており、当時NHK大河ドラマで有名になっていた冨田勲に音楽を依頼。ジャングル大帝は初めて音楽レコードが発売されたアニメとなった。


 1960年代後半、手塚は日本ヘラルドから「大人向けアニメ」を依頼され、「千夜一夜物語」を制作。これは大人の夜のナニを描写した作品で、制作に大難航したものの、公開されると大ヒットとなった。


 しかし1971年、手塚は虫プロの借金を引き受ける形で社長を辞任、1973年に虫プロは倒産した。その後、手塚は亡くなる直前の1987年にはフルアニメとリミテッドアニメを組み合わせた「森の伝説」という作品を作るが、続編を作ることは出来なかった。



■感想

 手塚の物語というよりは、虫プロを中心にした日本のアニメ黎明期の歴史ドキュメントという感じでしたね。しかしまずまず面白かった。