感想:「ザ・ドキュメンタリー」『“特撮の神様”円谷英二~ウルトラマン誕生の舞台裏~』

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BS朝日 ザ・ドキュメンタリー | BS朝日 http://www.bs-asahi.co.jp/documentary/
放送 BS朝日。2017年12月28日(木) 19:00~20:24

【※以下ネタバレ】
 

“特撮の神様”円谷英二ウルトラマン誕生の舞台裏~ (2017年12月28日(木)放送)

 

内容

http://www.bs-asahi.co.jp/documentary/lineup/prg_056_171225/
#56
2017年12月28日(木)
“特撮の神様”円谷英二ウルトラマン誕生の舞台裏~


■ポイント
“特撮の神様”と呼ばれ特撮映画を世界的にヒットさせた円谷英二
彼が夢見ていた映像の未来とは。不遇の時代から「ゴジラ」で脚光を浴びたのが53歳。
その後、映画では出来ないことをテレビに求め、62歳にして円谷プロダクションを立ち上げる。映画とテレビというメディアの交差の時期に奇跡的に必然的に生まれた「ウルトラQ」「ウルトラマン」。
時代が必要とした番組はどうしてできたのか。最後に関わった大阪万博での映像とは。

 
●生い立ち

 「特撮の神様」円谷英二は1901年生まれ。15歳の時、飛行機の操縦士になるため飛行機学校に入学するが、半年後にたった一機しかない練習機が墜落してしまい、学校が無くなってしまった。

 英二はそのあと玩具を作る会社に入り、様々なアイデア商品を作り出す。キックスケーター、スピード写真撮影ボックス、インターホンなどは英二が考えた物だという。その特許料で英二は懐が潤い、会社の仲間を宴会に連れて行ったところ、喧嘩騒ぎが始まってしまう。それを英二と共に止めたのが映画関係の人間だった。それがきっかけで、英二は空を飛ぶ夢を映画という形で叶えられるかも、とそれまで考えてもいなかった映画業界に入ることになった。

 英二は特撮技術のプロとなり、戦意高揚映画「ハワイ・マレー沖海戦」の真珠湾攻撃のシーンは、戦後GHQが本物の映像だと思ったほどのクオリティだった。しかしそのために公職追放にされてしまう。その後、英二は自宅で、のちの円谷プロダクションとなる会社を立ち上げて若手と共に仕事をした。



ゴジラ誕生

 昭和29年、英二は東宝映画「ゴジラ」の特撮監督になる。当初の案では大ダコが暴れる内容で、英二はコマ撮りを考えていたが、公開までに半年しか時間が無かったため、とても余裕がなく、着ぐるみに人が入るという方式になった。ゴジラは大ヒット。英二は「特撮の神様」と呼ばれるようになった。東宝には当時「天皇黒澤明がいたが、黒澤もゴジラを認めるようなことを言っていたらしい。



●テレビへ進出

 昭和30年代に入ると、テレビが急速に普及した。当初はテレビドラマは海外から輸入したものがメインだったが、やがて日本でも自分たちで作りたいという機運が高まっていた。英二もテレビで特撮ドラマをやるという事に興味を持ち、紆余曲折の末、TBSで「アンバランス」という特撮ドラマを作ることが決まり、昭和38年から英二監修のもと制作が開始された。

 アンバランスは超常ミステリー路線だったが、途中でTBSから注文が付き、怪獣が出て来るドラマに路線変更となり、タイトルも「ウルトラQ」に変更された。このタイトルは東京オリンピック(昭和39年)の体操の難易度で流行語となった「ウルトラC」と、人気番組「おばけのQ太郎」を組み合わせた物だった。

 昭和41年からウルトラQは放送され、人気爆発となった。



ウルトラマン登場

 ウルトラQの大人気のため、TBSは特撮ドラマ第二弾を制作することになった。当初企画は正義の怪獣が悪の怪獣と戦うという物で、主役は「ベムラー」という名前だった。その後正義のヒーローが主役へと変化し、今度はヒーロー名は「レッドマン」となった。そして最終的に、あの銀色の姿のウルトラマンが誕生した。

 ウルトラマンには、当初あのおなじみのカラータイマーが無かった。しかし「ヒーローには何か弱点が必要」という発想で追加され、また白黒テレビで見ても解るように、色の変化だけではなく残り時間がわずかになると点滅する、という設定にした。

 ウルトラQは二年間かけてじっくり制作されたが、ウルトラマンにはそんな余裕は無かった。しかしTBSはウルトラマンを早く放送したいので、今放送しているウルトラQ全28話予定を27話で打ち切ってしまい、ウルトラマンの放送を一週間早めようとした。


S41年7月 3日 ウルトラQ 第27話
S41年7月10日 ウルトラQ 第28話(放送中止)
S41年7月17日 ウルトラマン 第1話


 しかし英二たちは慌てて作ってクオリティを落としたくない。そこで7月9日の公開イベント「ウルトラマン前夜祭」を録画して10日に放送することで落ち着いた。ちなみにイベントは段取りが悪いかなり雑な物だったという。



ウルトラマン人気爆発、しかし……

 ウルトラマンは放送されると大人気となった。英二は子供への影響を考え、怪獣を倒すときにも血を描写したりしないように指示していたという。

 ウルトラマンの中身の古谷敏は、撮影中は火と水が怖かったと語る。ウルトラマンのスーツはゴム製なので火が付くし、また水中のシーンでは目や口の部分から水が入ってきて溺れかけたと言う。

 ウルトラマンは視聴率が40パーセントを超えるなど爆発的人気を誇ったが、TBSと円谷プロの合意の末、結局39話で打ち切りとした。英二はクオリティに拘ったが、そのために撮影スケジュールはいつもギリギリで、このままでは立ち行かないとの判断だった。特撮版は3班体制だったが、ウルトラマンを演じる古谷は一人しかいないので、大して意味が無かった。



●最後の作品

 昭和42年、半年の間隔を経て、新作「ウルトラセブン」がスタートするが、セブンの視聴率はウルトラマンには及ばなかった。この頃から英二は老いによる衰えを自覚し始め、現場に立つのではなく指導のような位置に下がるべきではないかと考え始めていた。

 そんな英二に、昭和45年開催予定の万博において三菱未来館で上映される映像の制作に協力してほしいという依頼が来た。英二は協力ではなく自ら撮影の指揮を取ることになるが、この頃から英二は心臓発作に襲われ始めていた。そして新作映画の企画を練りつつも、夢かなわず昭和45年1月に亡くなった。二か月後にスタートした万博で上映された映像が英二の遺作となった。

 生前、英二は「最近色々な物が帰ってきた云々と言っているので、ウルトラマンも帰ってきたらどうか」と言っていたという。そしてその言葉を元に、昭和46年に「帰ってきたウルトラマン」が制作され、以後現在までウルトラシリーズが続いている。


感想

 円谷英二の生涯とウルトラマン物語を半々ずつ、といった内容。よく知っている話も有りましたが、

ウルトラマン前夜祭の放送の裏話
・古谷敏の苦労話
・英二の遺作

とかは初耳で、結構面白かったです。
 
 

■コンテンツ
 “特撮の神様”と呼ばれた円谷英二。世界でも認められ、円谷が映像化したイマジネーションは、現在の著名なクリエイターたちを虜にしました。戦記映画「ハワイ・マレー沖海戦」では、わずかなの写真から本物と見間違える程のミニチュアで戦後GHQをも驚かせます。


その後、特撮を駆使した「ゴジラ」がヒットし、特技監督として数多くの映画を手がけます。その映画が隆盛を誇る最中、円谷英二が次にチャレンジしたのは? なんと62歳にして自らのプロダクションを立ち上げ、「テレビ」へと進出したのです。


英二の下に集まった若者たちは、2年の歳月をかけて「ウルトラQ」作り上げ、空前の怪獣ブームを巻き起こしました。当時の円谷英二を取材したドキュメンタリーでは、怪獣からインタビューを受け姿が!
そして、視聴率40%を超えた「ウルトラマン」の制作の裏側とは?なぜ人気絶頂の「ウルトラマン」が打ち切られなければならなかったのか?


数多くの怪獣を躍動させ、永遠のヒーロー「ウルトラマン」を生み出し少年の夢を育んだ円谷英二。時代や国境を超えて、怪獣、ヒーローは、なぜ愛され続けるのか?
その原点に迫ります。

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