【歴史】感想:NHK番組「風雲!大歴史実験」『豊臣秀吉 驚異の大返し 天下人への秘策に迫る』

<戦国時代・賤ヶ岳の戦い>大垣大返しから探る秀吉の軍略 (歴史群像デジタルアーカイブス)

風雲!大歴史実験 http://www4.nhk.or.jp/P3924/
放送 NHK BSプレミアム

【※以下ネタバレ】
 

他の回の内容・感想はこちら

perry-r.hatenablog.com
  

豊臣秀吉 驚異の大返し 天下人への秘策に迫る (2019年3月9日(土)放送)

 

内容

[BSプレミアム]
2019年3月9日(土) 午後9:00~午後10:00(60分)


秀吉が天下を取った賤ヶ岳の戦い。1万5千の兵を大垣から木之本52キロを高速移動。出発から10時間後には柴田勝家を攻撃し勝利した。大返しの経路を走破し秘密に迫る。


豊臣秀吉が天下を手にした賤ヶ岳の戦い。勝利を決したのは「大返し」と言う奇策だ。秀吉は1万5千人の大軍を、美濃大垣城から木之本までの道のり52キロを高速移動。出発から10時間後には、準備の整わない柴田勝家を攻撃、見事に討ち取った。実験では、実際に美濃大返し52キロの道を走破しながら、当時の軍隊の高速移動に必要だったものを解明。その裏には騎馬武者や足軽など兵種別に軍隊を再編成する軍事革命があった。


【司会】徳田章

 
 日本史での有名イベントを実際に検証してみる番組。今回のお題は1583年の秀吉による賤ヶ岳の戦いの前の美濃大返し。


●秀吉の「大返し」とは

 豊臣秀吉は生涯に二度、配下の部隊を超高速で長距離移動させる、俗に「大返し」と呼ばれることをやっている。

 一度目は1582年の「中国大返し」で、中国地方で戦っていた秀吉は、主君織田信長明智光秀に討たれたことを知り、配下の二万の大軍を、8日間で200キロ走破させた。

 二度目は1583年。天下を争うライバル・柴田勝家との戦いの際に実施した「美濃大返し」。美濃大垣城で戦っていた秀吉は、柴田勝家との決戦のため、一万五千の兵を率い、賤ヶ岳の麓・木之本までの52キロを高速移動し、出発後10時間で決戦の態勢を整えたとされる。



●大返し前の状況

 天正11年(1583年)4月20日。秀吉は織田信孝の守る美濃大垣城を攻めていたが、そこに信孝と同盟を結ぶ柴田勝家が賤ケ岳に進出したとの知らせを受ける。秀吉は午後4時大垣城を離れ、52キロを移動し、柴田軍を迎撃してこれを打ち破った。移動にかかった時間は諸説あるものの、移動開始から10時間後には戦闘の準備が整ったとされる。



●実験1「騎馬武者の移動時間は?」

 馬に乗った秀吉はどのくらいの時間で移動したのか? サラブレッドなら時速60キロで走れるが、当時の日本にいたのは日本の在来馬で遥かに小型。

 そこで木曽馬で実験してみると、重い装備を付けた武者を乗せて全力疾走すれば数百メートルで疲れ切ってしまった。速歩(はやあし)(時速12キロ程度)で一時間走り10分休憩、というペースならば52キロを走れ切れそうと判明。秀吉は5~6時間で木之本まで移動したと思われる。



●実験2「大軍の移動速度は?」

 大垣城を包囲していた大軍はどのくらいの時間で移動できたのか?

 秀吉軍は騎馬武者1500.歩兵13500、合計15000だったとされる。コンピューターシミュレーションで調べてみると、もし何の策も無くみなが一斉に移動を開始すれば、交通渋滞が起こり、大垣城下から離れるだけで3時間8分、全軍が木之本到着まで14時間19分、もかかってしまった。これではとても決戦に間に合いそうにない。

 そこで、まず騎馬武者が最初に移動、そのあと、歩兵部隊は三グループに分かれ、時間をおいて順々に出発する、という風にすれば、交通渋滞は避けられ、城下を1時間51分で離れられた。

 当時の部隊は「騎馬武者一人と、その武者の家臣の歩兵が数人」という構成が基本単位となっており、騎馬武者別、歩兵別、と整理されて戦っていたわけではない。もし秀吉が兵種別に部隊を整理して移動させたとしたら、相当先進的なやり方を取っていたことになる。



●輸送隊の運用

 賤ケ岳の戦に参加した加藤清正の回想によれば、馬が途中で使えなくなったため、装備を脱ぎ捨てて殆ど裸の状態で走ったという。これならかなりの速度で走れるのは間違いないが、ではいざ戦うときはどうするのか。

 戦場となった近江は秀吉の領地であり、秀吉は琵琶湖経由で輸送船を使って、武器・甲冑・食料を輸送させたとされる。



●実験3「足軽の移動速度は?」

 人間が運動した場合、疲労すると乳酸がたまるが、時速9.6キロ以下で走れば乳酸がたまる速度はゆっくりとなる。52キロの距離を走るならば、時速8.4キロのペースが望ましい。ということでフルマラソン経験者や未体験の人を含めて5人で52キロを走ってもらう。

 史実では秀吉は移動ルートの周辺の住民に、握り飯を大量に用意させ、兵士たちに食べさせるようにと指示を出していた。そこで途中の休憩所でランナーに握り飯を提供することにした。

 結果は途中二人が脱落し、三人が7時間26分で完走。また血糖値を調べてみると、ある程度までは下がるものの途中で下げ止まり、到着後に食事をとると急回復した。史実で戦いが始まったとされるスタートから10時間後の時点で血糖値は完全に出発前の値に戻っていた。

 血糖値は一度下がってしまうと数日は元に戻らない。秀吉の握り飯は、移動中に役立つというより、目的地に着いてからすぐに戦える様にするための物だったと考えられる。



●大返しの実態

 実験結果から美濃大返しは以下のような状況だったと推測される。

・午後4時に、まず騎馬武者が出発。時速12キロで速歩(はやあし)で移動し、午後9時に木之本に到着
・歩兵部隊は時間差で出発。装備を一切持たずに7~8時間で移動。深夜2時頃に最後の歩兵が木之本に到着。すぐに食事を行い体力を回復。
・武器・甲冑・食料は別動隊が輸送済み
・4月21日深夜2時ころ攻撃開始


感想

 今回は実験の数が少なくて、事実上ウルトラマラソン(?)の五人組の実験だけの回だったのでやや物足りない感も有りましたが、本当に人を走らせて確かめたので、そら説得力ありますわ。

 「移動ルートは秀吉の領地なので、兵士の知り合いが沿道で待っていて、身内を応援してくれて力づけてくれたかも?」とかいう予想も、実際に走らせてみないと気が付かないところですよね。そういう事が解ったのも含めて、まあ悪くはなかったかな。
 
 

他の回の内容・感想はこちら

「風雲!大歴史実験」内容・感想まとめ

perry-r.hatenablog.com
 
 
新説戦乱の日本史17 賤ケ岳の戦い