先人たちの底力 知恵泉 http://www4.nhk.or.jp/chieizu/
放送 NHK Eテレ。毎週火曜日 午後10:00~午後10:45(45分)
【※以下ネタバレ】
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ゼロ戦開発の光と影~世界に通用する技術を生むには~ (2016年12月6日(火)放送)
内容
太平洋戦争開戦直後、ゼロ戦は当時の欧米の戦闘機を圧倒する性能を持っていた。しかし戦争が進むにつれ、その優位性は失われていくことに…。技術開発のあり方を考える。
海軍が開発を命じた新型戦闘機の性能は、当時の常識ではありえない矛盾に満ちたものだった。不可能を可能にするために設計技師・堀越二郎が注目したこととは…? 緒戦で戦果を挙げたゼロ戦だったが、米軍が新型機を投入し始めると、その優位性は次第に失われていく。劣勢を挽回するために、海軍が力を入れたこととは…?当時の技術開発のあり方から、世界に通用する技術を生むために大切なことを考える。
太平洋戦争開戦当初、日本海軍のゼロ戦はアメリカの戦闘機と比較して圧倒時な強さを誇っていた。
ゼロ戦の開発スタートは1937年。海軍は三菱と中島に対し、「速度は時速500キロ以上」「航続距離は2000キロ」「小回りは過去の戦闘機と同等」という条件を出し、中島は実現不可能と開発から降りてしまっていた。速度を早くするためには強力なエンジンを積む必要があるが、そうすると機体は大型化する。また航続距離を延ばすため燃料タンクを大きくすれば、やはり機体は大きくなる。すると小回りはきかなくなる。つまり海軍の出した条件は相矛盾していて実現不可能としか考えられなかった。
三菱のエース開発者だった堀越二郎は機体を徹底的に軽くした。骨組みに穴を開けて余分な重さをグラム単位で削った結果、アメリカの同等の戦闘機が2.5トンもあるのに、ゼロ戦は1.7トン程度と軽く仕上がった。軽いために小さなエンジンでも早く飛ぶことができ、また小回りもきくようになった。さらに堀越は、航続距離の問題を「機体の外に流線型の予備燃料タンクをぶら下げる」という方法で解決した。このタンクの中から燃料を使っていき、カラになれば切り離して捨てる。これで航続距離の問題もクリアした。すべては「こんな要求は実現不可能」という常識を疑ったからだった。
※教訓1 常識を疑え!
しかし、1942年にゼロ戦がアメリカ軍に捕獲されその秘密が暴かれてしまった。ゼロ戦には弱点が二つあった。一つは時速550キロ以下で急降下できないこと。もう一つは機体を軽くするため、パイロットを守る装甲版や、燃料タンクを守る仕組みが全くないことだった。アメリカ軍は人命重視で装甲やタンクの防御を行い、日本軍は攻撃重視で防弾などを全て省いていた。
アメリカ軍は急降下で相手を攻撃する「一撃離脱」戦法を使い始め、急降下で550キロ以上出せないゼロ戦は敵に追いつけなくなった。またゼロ戦に対抗するために開発されたF6Fヘルキャットは性能でゼロ戦を上回っていた。海軍は新型の敵に対抗するために、次々とゼロ戦の改良を要求し、技術者たちはそれに時間を取られて新型機の開発が出来なくなった。そして、時代遅れになり果てたゼロ戦は、最後は神風(しんぷう)特別攻撃隊=特攻に使われる事になったのである。
※教訓2 成功にしがみつくな