感想:科学番組「コズミックフロント☆NEXT」『沈黙の宇宙飛行士 ニール・アームストロング』

コズミックフロント☆NEXT http://www.nhk.or.jp/cosmic/
放送 NHK BSプレミアム(毎週木曜 22:00〜23:00)。

【※以下ネタバレ】

沈黙の宇宙飛行士 ニール・アームストロング (2016年4月28日(木)放送)

今回の内容

沈黙の宇宙飛行士 ニール・アームストロング


人類で初めて月面に立ったアポロ11号の船長ニール・アームストロング。現役の時はマスコミから「最も取材しにくい男」と言われ続け、月着陸から2年でNASAを引退すると取材を受けることはほとんどなくなった。そして2012年、82歳で死去。すると、アームストロングを知る関係者や親族は、彼について徐々に語り始めた。


もともとアームストロングは飛行機好きの技術者で、宇宙飛行士になったのは偶然ともいえるものだった。そして、「最高のテストパイロット」と称賛される一方で「氷の司令官」とも呼ばれ、月面に最初に立つ人間として選ばれたのはNASAのさまざまな思惑があったことも明らかに。偉業をなし遂げたアームストロングはアポロ計画に何を思っていたのか?そして、その後の人生とどのように向き合ったのか?亡くなった今だからこそ聞き出せる証言を掘り起こし、“一人のエンジニア”として人生を貫こうとした伝説の宇宙飛行士の実像に迫る。

宇宙飛行士になるまで

 アポロ11号で人類史上初めて月に降り立った「ファーストマン」ニール・アームストロング。彼は月着陸の二年後にはNASAを辞めてしまったあと、取材などは受け付けなくなったため、その後の事はあまり知られていない。


 アームストロングは1930年生まれ。子供の頃から飛行機が大好きで、16歳の時にはパイロットの資格を取っている。そして大学では航空工学を学び、パイロットにして技術者だった。その後アームストロングはNASAで超音速実験機開発のテストパイロットを務めた。パイロットと技術者の両面を満たすこの仕事をアームストロングは気に入っていたという。

 1962年,NASAは宇宙飛行士の募集を行なったが、これにアームストロングは応募しなかった。その直前娘を亡くし精神的に相当ダメージを受けていたからだと思われる。しかし応募の締め切り後、わざわざNASAの幹部から書類が届き、記入して送り返すようにと言ってきた。アームストロングはこれを送り、宇宙飛行士に選ばれたのである。


望まなかった「ファーストマン」

 アメリカは1960年代中に人間を月に送りこむという目標を掲げていた。そしてついに1969年、アポロ11号を打ち上げることが決まり、乗員にアームストロング、オルドリン、コリンズの三人が選ばれた。アームストロングが船長、オルドリンが「着陸船操縦士」、コリンズが「指令船操縦士」という担当である。

 月に降りるのはアームストロングとオルドリンで、今までの慣例では船長は船に残り、もう一方が船外作業をする、という分担だったので、オルドリンがまず最初に月に降りる「ファーストマン」になる、というのが既定の様な雰囲気だった。実際オルドリンは自分をファーストマンにするように、同僚たちに推薦してくれと頼んでいた、という。

 しかしアポロ計画の最高幹部四人は会議の末、アームストロングをファーストマンにすることに決めた。常に沈着冷静であり、またファーストマンであることを鼻にかけるような性格でも無い、といったことが考慮されたという。

 1969年7月20日、月に降り立ったアームストロングは、「これは一人の人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」という名言を残した。


その後のアームストロング

 月から戻ったアームストロングたち三人は、全米・世界各国をパレードし大歓迎を受けた。そして、アームストロングはNASAの管理職に昇進するが、パイロット・技術者であるアームストロングの望む仕事では無く、かれは二年後にはNASAを辞めている。

 その後、アームストロングは大学教授となり航空工学を教える事になるが、マスコミの目から逃れる事はできず、その職も八年で辞め、以後世捨て人の様な存在になってしまった。

 しかし、1986年にスペースシャトル・チャレンジャーが事故で爆発した際には、事故調査委員会の副委員長となり原因究明に努めた。また航空技術の発展に関するようなイベントについては出席していたという。


 2012年8月25日に亡くなる。享年82歳。


感想

 「世界初の有人宇宙飛行 ガガーリン 偉業の真実」http://d.hatena.ne.jp/Perry-R/20150620/p2 に続く宇宙飛行士の英雄の伝記物。今回も良かった。