【歴史】感想:NHK番組「風雲!大歴史実験」『大坂冬の陣 真田丸 徳川撃退の秘密』(2016年10月28日(金)放送)


戦国合戦絵屏風集成 (第4巻) 大坂冬の陣図・大坂夏の陣図

風雲!大歴史実験 http://www4.nhk.or.jp/P3924/
放送 NHK BSプレミアム

【※以下ネタバレ】
 

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大坂冬の陣 真田丸 徳川撃退の秘密 (2016年10月28日(金)放送)

 

内容

風雲!大歴史実験「大坂冬の陣 真田丸 徳川撃退の秘密」
[BSプレミアム] 2020年11月21日(土) 午後2:59~午後3:58(59分)


大坂冬の陣で「真田丸」を舞台に少数の兵で徳川の大軍を撃退した真田信繁。寄せ集めの兵ばかりで、なぜ徳川に勝利できたのか。「真田丸」を再現し「伝説の戦い」を大実験。


大坂冬の陣で最後まで豊臣方についた真田信繁は、大坂城の外に「真田丸」という出城を築き立てこもり、圧倒的に少数の兵で徳川軍の大軍に大勝利をおさめた。「真田丸」とはどんな城だったのか。最近発見された最新の資料をもとに「真田丸」を再現。信繁が施したさまざまな仕掛けの威力を実験で検証しながら、豊臣氏の滅亡を目前に、勝ち目の無い戦いに命をかけた信繁の信念と人物像に迫る。


【ゲスト】千田嘉博須藤元気喜屋武ちあき,【司会】徳田章

 
 日本史での有名イベントを実際に検証してみる番組。今回のお題は1614年の大坂冬の陣の「真田丸」の戦い。


大坂冬の陣

 徳川家康関ケ原の戦いで勝利して天下人となり、そのあと大坂の陣で豊臣家を滅ぼした。その際、真田信繁(通称:幸村)は勝ち目のない豊臣側につき、徳川の大軍から大阪城を守るため「真田丸」という出城を築いた。

 大阪城は北・東・西には川が流れていて天然の要塞となっていたが、南側には平地が広がっており弱点となっていた。真田丸はその南側を守るために作られたのである。

 大坂冬の陣では、徳川軍は20万の大軍で大阪城を包囲したが、先に仕掛けたのは真田軍3000だった。それを迎え撃った徳川方の数は15,000とされるが、真田軍は五倍の敵を相手にわずか一日でこれを撃退したという。



真田丸の実態

 真田丸という名前は有名だっだが、その実態は謎に包まれており、大阪城を守るために即席で作られた砦程度に考えられていた。しかし2016年に発見された資料で、真田丸は砦どころか一つの城だったことが判明した。

 真田丸が有ったのは、現在の大阪市天王寺区の大阪明成学園辺りとされる。大きさは東西220メートル、南北230メートル、天守閣を持たない戦うためだけの城。そして周囲を巨大な堀と高い塀で守られていた。



●実験1「真田丸 鉄壁の守りの秘密を暴く! 堀の防御力実験」

 大坂冬の陣では、まず真田軍が真田丸から出陣して徳川軍を挑発、堀に押し寄せた徳川軍を火縄銃で迎え撃ったとされる。

 堀に水は無く、堀の深さは8メートル、幅40メートル。塀も含めると高低差は10メートルだったという。堀の底には敵の侵入を防ぐための障害物として、まず「まきびし」「乱杭」が配置され、さらに城から20メートル地点には柵、その次には逆茂木、そして堀の底を格子状に掘った「障子堀」、が待ち受けていた。

 火縄銃は射程距離が30メートル程度で、それ以上は慣れるとほぼ当たらないという問題があった。信繁は堀の幅を40メートルにすることで徳川からの火縄銃が命中しないようにした。もう一つ、一回発射すると弾を込めて再度発射するまでに20秒必要だった。


 堀の防御力を実験するため、廃校となった学校の校舎を借り、校庭を掘の底に見たて、徳川側が校舎に取りつけるかどうかを試すことにした。校庭(堀の底)には障害物の代わりに

・まきびし・乱杭→ペットボトル。倒せば退場
・柵→金属パイプで組んだ足場
・逆茂木→古タイヤとコーン。移動させないと先に進めない
・障子堀→軽トラックの荷台

を配置。

 守る真田軍は10人。校舎に登って塀の上から堀の底を撃つという見立てで実験する。火縄銃の代わりにトイガンを使い、塀に開けた鉄砲狭間(てっぽうさま)という小窓から射撃する。火縄銃と同じく一度撃つと20秒間発射できなくなる制約を付ける。

 攻める徳川軍は五倍の50人。当時の鎧の重さを再現するため5キロの重りを背負ってもらう。


 実験すると、徳川50人中31人は倒れたものの、残り19人は校舎にとりついてしまった。現実の数字に換算すると、5700人が堀を突破して真田丸にたどり着いたことになってしまった。



●実験2「真田丸 鉄壁の守りの秘密を暴く! 塀の防御力実験」

 同じ場所で、今度は「塀」の防御力を実験。

 普通の城には、鉄砲を撃つための小窓「鉄砲狭間(てっぽうさま)」が1メートル間隔で開いているが、真田丸では30センチ間隔だったとされる。また塀は二階建てになっており、二階には射撃する塀の後ろを自由に移動するためのスペース「武者走り」が有ったという。

 今度の実験では、真田軍の配置を二階建てにして、それぞれ五人ずつ配置。1階に当たる方は30センチ間隔で鉄砲狭間を用意、2階に当たる屋上には武者走りに見立てた通路を用意して実験。

 今度は徳川50人中42人が倒れ、残ったのは8人だけ。武者走りと数の多い鉄砲狭間のおかげで撃つ方が自由に移動して撃ちやすい場所から射撃できたうえ、二階建てとなったので死角が減り撃ち漏らしにくくなったのが理由だった。



●実験3「桝形の防御力実験」

 堀と塀で守られた真田丸も門は弱点となる。しかし信繁はそこにも仕掛けをしていたという。

 信繁の兄・真田信之(さなだ・のぶゆき)が江戸時代に築いた長野の松代城には「北不明門(きたあかずもん)」という門があり「桝形(ますがた)」という仕掛けが施されている。門は二つ扉があり、第一と第二の門の間は「L」の形に折れ曲がっている。敵が第一の門を突破して第二の門の前にやってきても、そこで周囲から攻撃できるようになっていた。

 そこで実験。徳川軍が第一の門を突破して第二の門の前まで来たという想定でスタートし、徳川軍が「丸太」(に見立てたもの)を四人で抱えて10回門を突けば勝利。ただし一回突くには五歩下がった状態からつかなければならない。

 守る真田軍は、カラーボールを相手にぶつければ倒したことになるが、火縄銃の制限を再現し、20秒に一回しか投げられないことにする。

 まず真田軍10人対徳川軍30人で実験すると、5回まで突いたもののそこで全滅してしまった。続いて徳川軍を50人に増員して再実験したものの、今度は4回しか付けずに全滅した。狭い場所で人数が増えた分。却って動きがとりにくくなり、真田軍の良い的になってしまったのである。



●実験4「石落とし」

 真田丸の塀の外側には「石落とし」という、まさに石を落として真下の敵を攻撃する仕掛けがあった。その威力を試すため、石落としがある宮城県白石市白石城で実験。

 石落としの真下にマネキン人形三体を置き、まず個々の人形にめがけて一個一個石を落としてみると、途中の石垣で跳ね返ってあらぬ方に飛んで行ってしまい、全く命中しなかった。しかし誰かを狙うのではなく、大量の石を同時に落としてみると、多数の石が跳ね回って、何回か試すと人形を全て倒してしまった。

 真田丸の兵は寄せ集めの浪人たちで、その出身も技量もバラバラ。練度に期待できなかったが、銃が撃てない兵でも石落としなら敵を攻撃できる。練度の低い兵でも攻撃に参加できる信繁の工夫だった。



●信繁の最期

 真田丸は冬の陣のあとの和睦の条件で取り壊された。続く夏の陣で信繁は家康の本陣に突撃し、あと一歩まで追い詰めたものの、結局敗れて死んだ。その姿は当時の人々から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と讃えられた。信繁の死んだ日に大阪城も落城し、戦国時代は終わった。

感想

 2016年に放送された番組で、この年の大河ドラマ真田丸」と連動したテーマの回。この番組お得意の、大量の人間を動員した大規模実験を連発してくれて満足度高し、でした。

 今回もコンピューターゲームぽい演出があり、「小宮国春」という人のアニメ絵で描かれた「真田信繁」(声:浪川大輔と「徳川家康」(声:上田燿司)が登場。家康が「戦いは数よ」とか豪語すれば、信繁がクールに「真田丸には大軍を防ぐための仕掛けが擁しております」とか言ってたりして、その辺りも面白かったです。
 
 

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週刊 絵で知る日本史 8号 大坂冬の陣図屏風
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