感想:科学番組「コズミックフロント☆NEXT」『地球という星をつかめ 伊能忠敬』

伊能忠敬: 日本を測量した男 (河出文庫)

コズミックフロント☆NEXT http://www.nhk.or.jp/cosmic/
放送 NHK BSプレミアム(毎週木曜 22:00~23:00)。

【※以下ネタバレ】
 

地球という星をつかめ 伊能忠敬 (2016年12月22日(木)放送)

 

今回の内容

http://www.nhk.or.jp/cosmic/broadcast/161222.html
地球という星をつかめ 伊能忠敬


江戸時代に精密な日本地図を作ったとして有名な伊能忠敬(いのう・ただたか)。実は忠敬にとって地図作りよりも大事な目的が存在した。それは、天文学として地球の大きさを正確に測る事だったという。


伊能忠敬(1745-1818)は千葉県佐原で造り酒屋を営んでいたが、子どもの頃からの夢は天文学者になる事だった。50歳で隠居してから本格的に天文学に打ち込むようになると数々の天体観測機器を自費で購入。その実物や観測記録が、佐原の伊能忠敬記念館には今も残されている。さらに大阪市立科学館の嘉数次人研究員の分析から、忠敬の観測が現代の天文学にも引けを取らない精度を誇り、その天文知識が無ければ精密な日本地図は作れなかったことが分かってきた。


番組は、それらを仔細に見ていきながら再現ドラマを加えて、伊能忠敬天文学者としての姿に迫る。まもなく没後200年。江戸時代という限られた知識と技術の中で、人がいかに「自分がいる地球や宇宙について知りたい」ということに情熱を傾けてきたか。伊能が作った日本地図を広げ、4K高精細映像で描き出す。

天文学者伊能忠敬

 江戸時代に精密な日本地図を作ったことで有名な伊能忠敬(いのう・ただたか)。しかし彼の真の目的は日本地図を作ることではなく、天体観測にあった。

 忠敬は商売で大成功し一代で大金持ちになったあと、50歳で息子に店を譲って隠居し、第二の人生で天文学を学ぼうとした。そして幕府の役人で19歳も年下の高橋至時(たかはし・よしとき)に弟子入りし技術を学ぶ。天文機器そのものは役人しか触れない決まりだったが、金持ちの忠敬は自前で機器をそろえて自宅に天文台を作って観測した。



●地球の大きさを知りたくて

 やがて技術を磨いた忠敬は、その技術を実用に生かしたくなった。具体的には地球の大きさの計測である。北極星が見える角度は緯度によって異なる。例えば、A地点とB地点で見える角度が一度違えば、それはすなわち二つの地点が地球の一度分の距離だけ離れているという事である。その距離を360倍すれば地球の円周が求められる。

 しかし、AB地点がわずかな距離しか離れていなければ、観測誤差が大きく正確な値は求められない。せめて江戸・蝦夷地(北海道)間くらい離れなければ正しい値は出てこない。そのため忠敬と至時は地図作りという名目で幕府に蝦夷地行きの許可をもらい、忠敬は1800年6月に出発した。そして9月の蝦夷地での観測の結果から、一度は106キロ、地球の円周は38,160キロ、と導いた。しかしこれは現実の円周40,000キロとはかなり誤差があった。

 忠敬はそのことに気が付いており、その後も東日本の測量を繰り返し、伸び縮みが起こらない鉄の鎖で距離を測るなど、正確さを追い求めた。そして最終的に「一度=110.74キロ」との値を得た。のちに至時が手に入れたヨーロッパの最新の天文学の書物「ラランデ暦書」から、忠敬の求めた値が正しいことが裏付けられた。これは現実の距離と0.3パーセントしか誤差が無い正確な物だった。



●経度を求めるために

 忠敬の地図つくりにはある課題があった。東西の位置の確認である。南北方向は北極星の高さで位置が正確に割り出されるが、東西(経度)はそういう明確な基準が無い。忠敬たちは日食・月食の見える時間が東西で異なることを利用して距離を求めようとしたがそれは不正確なものでしかなかった。しかも日食・月食はめったに起こるものでもなかった。

 至時は代わりに木星の四大衛星(イオ・エウロパ・ガニメデ・カリスト)が見え隠れするタイミングを観測することを思いつくが、それに関するデータが無かった。ところがラランデ暦書の中にまさに四大衛星の動きを計算するデータが掲載されていたのてある。それはあのガリレオ・ガリレイが観測したデータだった。至時はその部分の翻訳に全力を注ぐが、無理がたたり40歳の若さで亡くなってしまった。

 その翌年、忠敬は今度は西日本の測量を命じられ11年かけて地図を作った。忠敬は地図の東西にずれが実際よりあることは認識していたが、当時の技術ではそれが限界だった。忠敬は最後にすべての測量結果を組み合わせた日本全体の地図を作る大仕事に取り掛かったが、果たせないまま1818年に73歳で亡くなった。忠敬の死は秘匿され、その後地図作りは弟子と幕府天文台が引き継いだ。

 1821年に完成した日本地図が幕府に収められ、それは忠敬の仕事として提出された。彼の死が隠されていたのはこのためだったのである。


感想

 忠敬の地図つくりは有名ですが、「天文観測がメインで、地図作りはサブ」という話は初耳でした。また、江戸時代の人間でも地球が丸いこととか、木星四大衛星とか、(学者は)知っていたんですね。鎖国している江戸時代のことだから「世界の果ては滝になっていて、そのまま進むと下に落ちてしまう」程度の知識レベルなんだと思ってましたよ……


 ちなみに再現ドラマで忠敬役を演じたのは岡本信人でした。懐かしい名前です。

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