感想:オカルト検証番組「幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリーE+(プラス)」『平将門・首塚伝説&ツタンカーメンの呪い』(2020年11月16日(月)放送)

将門伝説の歴史 (歴史文化ライブラリー)

幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリーE+(プラス) https://www.nhk.jp/p/ts/R88ZYP985X/
放送 NHK Eテレ。毎週月曜午後7:25~午後7:50(25分)

www.nhk.jp
【※以下ネタバレ】
 

他の回の内容・感想

perry-r.hatenablog.com
 

超常現象の謎を楽しみながら、その正体を徹底検証!
BSプレミアムで大好評を博したシリーズが、地上波・Eテレの夜に出現!
2014年に放送した総合テレビ版から名作をセレクト。最新情報などを加え再構成。
みなさんの心に引っかかっている謎と神秘と不思議の真相に迫ります!

光と闇のナビゲーター 栗山千明
語り 中田譲治
テーマ音楽 志方あきこ

 

平将門首塚伝説&ツタンカーメンの呪い (2020年11月16日(月)放送)

 

内容

幻解!超常ファイルE+(プラス)「平将門首塚伝説&ツタンカーメンの呪い」
[Eテレ]2020年11月16日(月) 午後7:25~午後7:50(25分)


手を出した者が次々死亡!?関東の王・平将門首塚と、黄金のマスク・ツタンカーメンの墳墓。王の呪いは本当にありうるのか?当時の資料を徹底検証すると、意外な真相が!


王の墓を暴いた者が次々と怪死?東京・平将門首塚と、エジプト・黄金のマスクで有名なツタンカーメンの墳墓。「王の呪い」は本物なのか?▽かつて大蔵省・敷地内の将門の首塚を工事のため取り壊したところ、大蔵大臣が急病で死亡し、けが人続出、落雷など怪現象が多発したのは本当か?▽一方、ツタンカーメンの墳墓発掘に関わった者が20人も怪死したのは、ファラオの呪いか?王の呪いの正体を当時の資料をもとに徹底検証する。


【出演】栗山千明,【語り】中田譲治

 
平将門の呪い

 東京都・千代田区・大手町一丁目に「将門塚」が存在する。1200年前の豪族・平将門の祟りを鎮めるために作られたもので、明治時代にはその名の通り、高さ7メートル・周囲27メートル程の巨大な塚が存在していた。明治時代には、大蔵省の敷地内にありながら、古の姿をとどめていたという。


・祟り!? 大蔵省連続怪死事件

 大正12年9月1日の関東大震災で大蔵省庁舎は全焼し、敷地内に仮庁舎を建てることになった。将門塚を崩し、塚の前の池を埋め立て、仮庁舎は完成した。ところがそれ以降、現役大蔵大臣が死亡、大蔵省関係者十数人が怪死、怪我人も続出した。さらに落雷で庁舎が焼け落ち、周辺の官庁まで焼き尽くしてしまった。


・昭和の恐怖! GHQ祟られる

 太平洋戦争終戦直後。日本に進駐してきたGHQ千代田区に本部を作り周辺の整備を開始、首塚を潰して駐車場を作ろうとしたところ、ブルドーザーの事故が起こり運転手が死亡。その後次々と事故が起こり、ついに首塚の取り壊しは中止になったという。



平将門とは

 平将門は、平安時代の関東の一豪族だったが、周辺の豪族たちを次々と打ち破り、関東一体の支配者となると「新皇」を名乗った。しかし、これは明白な天皇と朝廷への反逆行為だった。やがて将門は討伐軍に討たれ、その首は京都に運ばれ、さらし首にされた。ところがその首は夜な夜な怪しい光を放ち、やがて胴体の有る関東へと飛び去った。首塚は、その首が落ちた場所を祭ったものだったという。



ツタンカーメンの呪い

 死せる王の呪いは日本だけの話ではない。有名な「ツタンカーメンの呪い」が存在する。

 1922年11月。エジプト・王家の谷で、古代エジプト王朝の王「ツタンカーメン王」(紀元前14世紀)の墳墓が発見され、豪華な副葬品・財宝が掘り出され、発掘隊のリーダー・ハワード・カーターとスポンサーのカーナボン卿は時の人となった。やがて発掘隊は王のミイラが身につけていた黄金のマスクを外し、王の死体を白日の下にさらした。ところがこの時から発掘の関係者が次々と呪われ始めた。

 まずカーナボン卿が原因不明の高熱を出して死亡し、新聞は謎の病気で急死と報じた。以後、発掘の関係者が次から次へと死んでいき、犠牲者は20人を超えた。!



●「ツタンカーメンの呪い」の正体

 1934年。自らも発掘に関わったハーバート・ウィンロックは、呪いを否定してみせた。まず「最初の犠牲者」カーナボン卿は、そもそも過去に二度も重大な手術をしており、健康とは程遠かった。

 財宝が残されていた「墓の前室」に入ったのは22人で、そのうち死亡したのはカーナボン卿を含めて6人。またミイラの包帯を外した現場にいたのは10人だが全員健在。そして死亡したという6人は、長く病気を患っていたか、年齢が高いか、だった。

 そしてウィンロックはこの呪い話の出どころは「ロンドン・タイムズ」紙に好意を持っていない新聞記者たちだとした。当時、発掘に関する記事は、カーナボン卿の判断でロンドン・タイムズが独占取材しており、他紙は周辺に関する記事しか書けず、記者たちはカーナボン卿に不満を募らせていた。そしてカーナボン卿が死んだとき、他紙の記者はこれを呪いと結びつけ特ダネだとした。以後も、誰かが死ぬたびに「呪い」を持ち出し、ロンドン・タイムズに対抗したのだった。



●「平将門の祟り」の正体

 実は将門の祟りに関する歴史は古く、鎌倉時代に塚の周りで伝染病が流行した際、人々は将門の祟りと怖れたという記録が残っている。そして真教上人という僧が塚を修復して、寺で祭ったところ、伝染病は収まったという。そのあと、何故唐突に20世紀に祟りが蘇ったのか?

 過去の記録を調べてみると。大正15年9月に確かに現職の大蔵大臣「早速整爾(はやみ・せいじ)」が就任後僅か三ヵ月で病死していたが、早速は首塚の取り壊しに関わっていないうえ、安らかな大往生だった。また大蔵省関係者十数人が怪死という事実は確認できなかった。さらに落雷で庁舎が焼け落ちたのは首塚取り壊しから17年も経った後の昭和15年のことで、そもそも落雷したのは航空局で大蔵省ではなかった。さらに当日は東京で二十か所に落雷する大荒れの天気で大蔵省が狙われたものでは無かった。

 首塚取り壊しから5年後の昭和3年3月に大蔵省が「鎮魂際」を行った事実はある。当時死亡者が十四人出たうえ、首塚を踏みつけているせいか足を怪我する者が続出し、大蔵省の中で誰ともなく祟りだという話が出たから、という理由だった。祟り伝説はこの記事が起源らしい。このあと、大蔵省は仮庁舎を撤去し、石碑を復活させている。



●守り神・将門

 また終戦直後にブルドーザーの事故が1件発生した模様だが、不審な事故の連続云々という記録は無かった。そもそも駐車場工事が中止になったのは、地元の人たちが将門塚を「古代の王の墓である」として保存を陳情したおかげだった。

 かつては、大手町の辺りも「神田」と呼ばれており、首塚の近くには将門を鎮魂するための神社と鳥居が有った。それが「神田明神」である。徳川家康が、平将門を江戸の守り神としたことで、神田明神は江戸の総鎮守となった。神田明神は江戸時代の初めに現在の場所に移されたが、今も神田・日本橋・大手町・丸の内・秋葉原、等の総氏神である。

 しかし江戸時代から明治に入り、明治政府が京都からやって来ると、将門は反逆者として神田明神主祭神から外されてしまい、庶民はそれに不満を抱いた。昭和35年には地元に人たちにより将門塚保存会が作られ、塚は大事に守られている。地元の人にしてみれば、将門は守り神であって、祟りをなすような存在ではないのである。


感想

 「平将門祟り伝説」と「ツタンカーメンの呪い」という、それぞれ単独で一回使えるテーマを、二つ同時に扱って25分の番組にしてしまったという奇跡の回。恐怖とかオカルトとか何とかより、歴史番組を見ている感じでしたけど、面白かったので問題ありません。
 
 

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